はなのすきなうし [読書♪]

『はなのすきなうし』が好きな、知り合いがいます。
神様は意地悪すぎるんじゃないか、とつぶやきたくなるほど、その人にはあまりにもつらい出来事が多すぎました。
どれ一つとっても、一つだけで、誰にとってもその人の生活を停止あるいは破綻させ、立ち直るのに何年間、もしくは一生かかっても不思議ではないことが、その人一人の身に、比較的短い間に降り注ぎました。
耐える姿から、多くを学ばせてもらいました。
実家でリハビリ隠遁生活をしていたわたしは、夏のある日、役所から帰宅した母に、『はなのすきなうし』という絵本があることを知らされました。
役所の待合室でその本を見つけて読んだ母は、
「あの人がなんでこの本が好きなのか、分かる気がした。」
と一言。
その後、気になりつつ、わたしがその話を読むことはありませんでした。
昨日、行きつけの本屋さんで、偶然『はなのすきなうし』を見つけ、迷わず手に取りました。短い話でしたので、そのまま一気に読み上げました。
わたしも、
「あの人がなんでこの本が好きなのか、分かる気がした。」
飄々としたタッチで描かれた牛「ふぇるじなんど」の人柄。
一気に読んでしまいたい、ちょこっとハラハラする展開。
静かな優しさが、温かくもどこかしんみり、ふっとため息のような苦笑ひとつ。微笑ましさ、安堵感、そんな、優しさとはどこか切ないものなんだなぁというお話。
理屈抜きに、いいなぁ、好きだなぁ。
絵本は、絵、活字、フォント、余白、紙質、紙の色、本の大きさ、手触り、あらゆるレイアウトと内容、音の響きなどなど、総合芸術だと思うわたしにとって、そのまま手元に残すことに即決した一冊。じわじわ・・・・・・と味が出てくる感じ。
見開きの右頁には、余白た~っぷりに、次頁へ急ぎたくももったいないお話が。
左頁には、白黒の「ユーモア」あふれた挿絵が。
小さな絵本に、広いスペインが広がります。
ふぇるじなんどのココロは、単純みたいだけど、今わたしたちが彼の心境に到達するには、遠い遠い。何がどうってことないことこそ、大事なことなんだろう。失って初めて気づくのではなく。
この夏も『愛しの座敷わらし』 [読書♪]

今年も、夏がやってきて、わたしは『愛しの座敷わらし』を読みながら、一人で涙を流している。
一般的には、座敷わらしとの出会いを通じて、一家が家族の絆を取り戻し、少年智也たちのひと夏の成長、友情、智也自身も気づいていない、淡い淡い初恋などを描いた、ほのぼのと優しい、この夏、これから起きそうな、そんな日常だとも思う。
でも、わたしは夏になるととりわけ、
「生まれてすぐに こわれて消えた」
の章あたりに差し掛かると、頬が濡れてしまう。
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ちょうど『愛しの座敷わらし』が朝日新聞の夕刊に連載されていた頃、わたしはようやく、新聞の連載小説くらいの長さならば、体調が良ければ読んで理解することができるくらいに言語が回復していた。
だからわたしにとっては、「初めて読んだ本」にも相当するのかもしれない。
さらに、わたしは母に「座敷わらし」と命名された。
わたしの見た目が座敷わらしのイラストに似ているのと、
参照)↓

当時のわたしの歩行が、
と、 と、 と、と、 と。
という、座敷わらしの足取りに似ていたからである。
さらに、ぽてっ。と転んだり。
(-_-).。oO()
リハビリ中の娘に、上記の理由で「座敷わらし」と命名するあたり、我が母は、やはり、ダダモノではない。
しかし、わたしはいたくその名を気に入っており、一人称を「お座敷わらし」と名乗り、母には「わらし」「わら」と呼ばれ、彼君には「お座敷」と呼ばれている現状を歓迎している。
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「座敷わらしは、潰した子ども・・・・・・」
「きれいな言葉で言えば、神様にお返しする、ですね。神様にお返しした子どもが、お乳とおんぶの要らない年になってから、この世へ戻される。今度は悲しい思いをしないように、棲みつく家を裕福にする力を備えて。
座敷わらしがお菓子やおもちゃが好きなのは、それがこの世では手に入らなかったものだから。でも、赤ん坊の時に命を絶たれた座敷わらしには、その食べ方も遊び方もわからない」
そうだよ、座敷わらしは、怒ったりしない。誰かを恨んだりもしない。きっと自分の命を奪ってしまった自分の親のことだって。そういう心が芽生える前に、この世から消えちゃったんだ。
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過保護気味だった母史子が、智也と、多感な年頃の梓美にも、この話を聞かせる。一家がそろって、この話を聞き、わたしよりはるかにしっかりと、中学生の梓美と、小学校四年生の智也が、座敷わらしの生い立ちの「現実」を受け止める。
恨んでしかるべき、怒ってしかるべき仕打ちを受けたのに、心は透明なまま、お菓子やおんぶや、手に入らなかったぬくもりを求めて、百年以上も一人で家に居た。
誰かを恨まない。
こんなに哀しいことってあるんだろうか、と思ってしまう。
赤ちゃんではなくても、8歳、9歳くらいになったって、自分に何をされているのかが理解できない現実ならば、肉体的にも精神的にも、圧倒的な力の差がある大人が成した仕打ちに対しては、激しい恐怖と痛みを感じても、怒りや恨みを感じられないものだ。
たとえ、生き延びて大人になって、当時の事実を理解したとしても。
だから、多感な少年智也が言うことは正しいと思う。
「怒ったり悲しんだりしない、赤ん坊みたいな心のままの座敷わらしは、羨ましい気もするけれど、なんだか可哀想だから。」
子どもの心のほうが、残酷な現実を受け止めて、そこにも、光や再生を見出して育てることができるのかもしれない。そういう意味で、子どもは、「大人」だ。
そんなひと夏の物語、今年も夏が来た。














